創業者
紹介

藤本隆治 経歴

昭和10年(1935年)

1月3日、石川県河北郡内灘町大根布にて生まれる

昭和16年(1941年)

浜猿払小学校(4月〜10月)と石川県大根布小学校(11月〜3月)に通学

昭和22年(1947年)

浜猿払小学校卒業

昭和25年(1950年)

浜猿払中学校卒業

昭和25年(1950年)

浜猿払定置網に従事(4月〜10月)。島根県瀬戸ヶ島にて、福井県三国生まれの親方の元、イワシの刺し網漁に従事(11月〜翌3月)

昭和28年(1953年)

浜猿払定置網に従事(4月〜10月)。冬、内灘町土建業にも従事。内灘町米軍試射場建設の仕事を任される

昭和34年(1959年)

浜猿払の小定置漁業に従事(4月〜10月)。鮮魚の運送を始める(11月〜翌3月)

昭和40年(1965年)

宮野 霞と結婚

昭和43年(1968年)

藤本漁業部設立。定置漁業を始める

昭和59年(1984年)

猿払村の学校給食に秋鮭の無償提供を開始(現在も継続中)

昭和60年(1985年)

活魚事業開始。海底生簀(いけす)を設置

昭和62年(1987年)

10月、株式会社オホーツク活魚設立。活魚・鮮魚出荷・加工事業開始

平成10年(1998年)

猿払村漁協定置部会長に就任

平成11年(1999年)

宗谷管内さけ・ます増殖事業協会副運営委員長に就任

平成16年(2004年)

北海道定置協会宗谷支部長・北海道定置漁業協会理事に就任

環境大臣賞 受賞

全国豊かな海づくり大会は、生活者に安全で美味しい魚介を届けるために、『つくり育てる漁業』の推進を通じて、漁業を振興・発展させることを目的とした公益社団法人全国豊かな海づくり推進協会の事業です。天皇皇后両陛下ご臨席のもと、昭和56年より毎年各地で開催されており、栽培漁業部門、資源管理型漁業部門、漁場・環境保全部門について、永年にわたって貢献し、その功績が顕著であった団体や個人に対し、大会会長賞、農林水産大臣賞、環境大臣賞、水産庁長官賞を授与し、全国豊かな海づくり大会式典で表彰を行っています。
平成25年10月26日、27日、「第33全国豊かな海づくり大会〜くまもと〜」(大会テーマ:育もう 生命かがやく 故郷の海)が開催され、創業者・藤本隆治が資源管理型部門で環境大臣賞を個人受賞しました。

第33回全国豊かな海づくり大会くまもと
第33回全国豊かな海づくり大会くまもと
第33回全国豊かな海づくり大会くまもと
北隆丸_オホーツク活魚

環境大臣賞に輝く 豊かな海づくり大会 永年の研究を評価
資源管理型部門 藤本氏が個人受賞

【猿払】猿払村浜鬼志別、株式会社オホーツク活魚・藤本漁業部代表取締役 の藤本隆治氏(78)が、第33全国豊かな海づくり大会資源管理型漁業部門で環境大臣賞を受賞した。同大会は3部門12賞の表彰で、個人受賞は唯一。このほど熊本県立劇場で行われた表彰式には、妻の霞さん(69)と共に出席。天皇皇后両陛下が見守るなか、石原伸晃環境大臣から賞状が手渡された。藤本氏は「かつての資源枯渇から村民の努力があって再生、発展することが出来た。今後も関係者、漁業者が一体となって育てる漁業を推進させていきたい」と述べた。藤本氏は岩内の底層定置網をヒントに、オホーツク沿岸の時化や潮流に強いフタ網のある「かぶり網式定置網」を独自に開発。20年前にはフレーク海水氷製氷機を先進的に導入し、漁獲物の鮮度保持を徹底。また、海底いけすの開発や漁獲した魚を活魚として扱うため、昭和62年には枝幸町目梨泊に活魚センターを建設し、出荷や加工を手がけて、6次産業化への取り組みに貢献している。石川県内灘町出身。昭和43年に猿払村に移住し、サケ定置や小型定置、ホタテ漁などを営む。この間、猿払村漁協と連携し、資源管理や体制を確率させ、積極的に漁業関係者をリード。平成10年には同漁協定置部会長、同16年には北海道定置網協会宗谷支部長として定置網漁業の経営安定化に貢献してきた。今回の受賞に霞夫人は「永きにわたる苦労、努力が認められて嬉しいです」と笑顔を浮かべた。同表彰は、多年にわたり、資源管理型漁業の推進に関する実践活動及びその運動を通じ地域産業の発展に功績のあった団体等を称えるもので、藤本氏の受賞は多くの関係者や漁業者の励みとなっている。

日刊宗谷 宗谷郡部版(平成25年11月9日)

歴史資料

創業者・藤本隆治の祖父が石川県内灘から北海道に移り住み、現在で4代目。藤本漁業部(北海道猿払村)を営みながら、昭和62年、藤本漁業部(北海道猿払村)を母体として株式会社オホーツク活魚を設立。親会社の自社船「北隆丸」をブランド名に掲げ、生産者と生活者をつなぐ産地の“魚屋”として、『地元オホーツクの魚の価値を最大限引き出す』をモットーに、商品開発に日々取り組んでいます。

猿払ホタテに先べん 渡り鳥漁民
石川・内灘の出、四代目は活魚に挑戦

ホタテ王国として全国に名をとどろかせる日本最北の村、宗谷・猿払村。三つの港を中心に立ち並ぶ豪邸を、やっかみ半分に「ホタテ御殿」と呼ぶ人もいる。父力松(82)を石川・内灘から引き取った藤本隆治(55)もその一つに住む。二階建て自宅は、廊下の広さがやけに目についた。隆治も、稚内税務署管内の長者番付の上位に名を連ねたことがある。「でも、決してアブク銭じゃない。海や海の生き物と本気で付き合ってきた成果さ」と胸を張る。猿払のホタテ漁は内灘の漁民が隆盛のきっかけを作った。

初代は明治37年来道
ここで最初にホタテ漁が行われたのは明治15年。稚内に定住していた石川出身者だという。内灘の漁民がはっきりと記録に現れるのは三十四年からだ。隆治の祖父、七田他十郎が内灘から入ったのはそれから三年後。漁期は夏の三か月。ニシン漁に比べ三倍の収入を得た、と内灘町史に記録されている。内灘は砂丘をはさんで海と潟に囲まれた独特の地形だ。昭和二十八年の在日米軍試射場問題で、はからずも全国にその名を知られるようになった。今でこそ、県都金沢のベッドタウンになり、様相を一変しているが、明治期は出稼ぎ漁業を余儀なくされた貧しい漁村だった。三、四人乗りの帆かけ舟で日本海を駆け回る。山口沖のイワシ漁から北海道沿岸のニシン漁まで。だが「なにをやってもうまくいかない」といわれた。ニシン漁では留萌・羽幌町などの定住者にその名残をみる。七田がいち早くホタテ漁に目を向け、最後までがんばったことが、結果的には孫に『美田』を残すことにつながった。内灘の漁民は昭和十年、地元漁民の権利を理由に入漁を禁止される。しかし、七田と、力松の養父勇太郎ら数人は漁場選定能力などが買われ、季節労働者の形を残したまま引き続き働いた。力松が猿払にやってきたのは六十年前だ。が、一か月で退散した。その後、力松は小樽のゴム長靴会社に就職し、全国行脚。方々の港の情報通になり、生来のやまっけも手伝ってか、マグロ・カツオ船を持つが、石巻で沈めてしまった。覚悟を決めて猿払に住みつき、ホタテとがっぷり取り組んだのは二十七歳の時だった。「中国の貝柱加工技術を学んで、銀行から金を借りてはホタテにつぎ込んだもんさ」。戦前、戦後の黄金期を支えた自負か、力松の口調は滑らか。話は次第に大きくなる。ところが、三十年代に入ると、乱獲がたたり、漁獲高は急減。新たに始めたタラの刺し網船もソ連に拿捕(だほ)される。力松はしかたなく内灘に帰り、町営浴場の管理人になった。猿払に住んだとはいえ、力松の時代はまだ、意識は季節労働者だった。

三代目、再び猿払へ
いったん途切れた流れは力松の子隆治によってつながる。稚内にとどまっていた隆治は四十三年、「一攫千金」を夢見て猿払に戻ってきた。村と漁協が起死回生をかけ、本格的なホタテ養殖に取り組む三年前。タイミングもよかった。「寝る間も惜しんで」隆治はがんばった。網一つとっても「もっと取れるようになるはず」と研究する。同じ内灘出身の妻霞(46)の馬力も頼もしかった。隆治の研究心と魚介への愛情は、長男の信治(25)に引き継がれている。東京水産大を出た信治は枝幸町に活魚センターを作り、首都圏に送り出している。まだ赤字だが、「育てる漁業」への挑戦の一つだ。小さな小さな二つの漁村を結びつけ、「海を耕して来た」渡り鳥漁民の浮き沈みは、ようやく太い流れになり、内灘からの源流に育ちつつある。

読売新聞 新・北海道人 それぞれの源流33(平成2年12月22日)